「愛すべき」論理と「信ずべき」倫理はどこに?−中国が哲学に出会ったとき

  1. 日時:2015年4月24日 17時30分から
  2. 場所:18号館ホール(詳細はこちら

東京大学 大学院総合文化研究科 地域文化研究専攻

【講義概要】

 「哲学」は明治になって翻訳された新しいことばです。英語ではフィロソフィーphilosophy、ギリシャ語でフィロソフィアphilosophiaと呼ばれていることをご存じの方もいることでしょう。「哲学」という訳語は漢字の祖国中国にも伝わって、20世紀初め、東アジアにも西洋に芽吹き花開いた哲学はないかと探索が始まります。以来、「中国に哲学はあるのか?」という問いが、今日もなお繰り返し問われつづけています。中国哲学というジャンルがあるではないか、と思われるかもしれません。しかし、中国哲学というのは、いったい中国固有の哲学なのでしょうか、それとも哲学の中国における展開なのでしょうか。
 このように考えてみると、「哲学」という翻訳語の誕生は、中国固有の知とフィロソフィーが相誘うように、互いの姿を変容させながら、境界を乗り越えてそれぞれの異界に足を踏み入れるきっかけを準備したのだと言えそうです。そこにはきっと、古いことばを使いながら新しいものを生み出すチャンスが眠っていたはずです。
 もちろん、「哲学」という古くて新しい知を取り入れながら、中国哲学を生み出すのは決して容易なことではありませんでした。この講義では、哲学に最初に出会った中国人のひとり、王国維を例に挙げながら、彼がなぜ哲学にひかれたのか、どんな中国哲学を構想しようとしたのかを振り返ります。彼は哲学という知のかたちへの愛を吐露しながらも、「愛せるものは信じられない、信じられるものは愛せない」ということばを残して、最終的に哲学を放棄してしまいました。それは、中国の若き哲学の挫折でした。しかし同時に、それは中国語による哲学の幕開けを告げる宣言でもありました。なぜ、愛すべきものはじゅうぶんに信じられないのか、なぜ信じられるものには愛を感じられないのでしょうか。フィロソフィアとはもともと「智への愛」という意味です。わたしたちはもう一度、王国維が立ちすくんだ場所で彼に寄り添いながら、愛すべきものと信じられるものが結びつけられる可能性を、中国語の哲学から考えてみたいと思います。

【キーワード】

中国、哲学、近代、王国維

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